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外国人から見た日本【戦争編】

ぼやきっくり から一部転載
 
「外国人から見た日本と日本人」。第30弾です。
 ここしばらくこのシリーズは東日本大震災関連のものを紹介してきましたが、今回は終戦の日にちなみ(もう日付は変わってしまいましたが)、それにふさわしいと思うものを集めてみました。


■トニー・マラーノ=通称「テキサス親父」。イタリア系アメリカ人。ニューヨーク市ブルックリンのイタリア人コミュニティーで育つ。大学では歴史学を専攻。AT&Tに30年間勤務後リタイア、現在は悠々自適の生活。“PropagandaBuster”の名でYouTubeにチャンネルを主催。世界の抱える問題に独自の視点から批評を加えて、注目を集める。「テキサス親父」とは日本のファンがつけたあだ名。

zakzak>11/7/22付:テキサス親父の日本訪問記(1)より

 大阪で一泊した後、われわれは広島に向かった。広島に着くと早速、路面電車に乗り、広島の平和記念公園に向かった。電車を降りてまず、俺は「原爆ドーム」と書かれた看板を目にした。正直なところ、俺は見るからにアメリカ人であるわけだから、ここを見て回ることには若干の気後れを感じた。でもそうした考えはただの杞憂でしかなかったことを俺はすぐに知った。記念写真を撮ろうとカメラをカバンから出すと、近くで路面電車を待っていた女学生たちが、ポーズをとり、手を振り、そして笑顔を見せてくれたんだ。彼女たちの温かさに俺は救われた気分になったよ。

 われわれはその日、60年以上前にこの地で起きた悲劇に思いを馳せ、心に痛みを感じ続けながらも何時間もその記念公園と記念館を見て回った。そして、その間多くの日本人の生徒とすれ違うことがあったんだが、一度たりとも俺たちに対して敵意が向けられることはなかった。

 記念公園では、数百人もの子どもたちがいるのを目にしたが、彼らの態度にも俺は感銘を受けた。世界中のどこでも、子どもは叫び、はしゃぎ、そして走り回るものだが、そこではそういう光景を見ることはできなかった。これは、日本人の子どもが他の国の子どもたちと違うからではないんだ。彼らは、自分たちが今歩いている場所を理解していて、それに対して、敬意を表していただけなんだ。上空は開けており、壁も見あたらなかったが、周囲の人の態度を見て、俺は自分が今、聖堂か教会の中にいるかのような錯覚を覚えた。

 このことから見えてくるのは、はるか前に起きたあの悲劇が、この国では決して風化されてなどいないということだ。しかも、彼らは怒りや憎しみによってそれを記憶にとどめているわけではないんだ。そこにあるのは、戦死者や、戦争で苦しんだ人たちに向けた、純粋な敬意なのさ。


 戦争が始まってから終戦のその日まで、両国はまさに全面戦争にあり、お互い、相手の国を完全に打倒することしか考えていなかった。人類史に刻まれるべきでない凶行もあった。しかし、今では両国の結び付きは強固なものとなり、その友情は壊れがたいものとなっている。俺がこのことを書くのは、アジアの多くの国が日本への敵意を明らかにするためだけにいまだに戦争の恐怖を利用しているのとは対照的な道を、両国が歩んでいることを強調しておきたいからなんだ。

 
ラルフ・タウンゼント=アメリカ人。1900年(明治33年)生まれ。コロンビア大学卒業後、新聞記者、母校の英文科教師を経て米国務省に。1931年(昭和8年)に上海副領事に。ここで満州事変に伴う第1次上海事変に遭遇。その後福建省福州副領事。1933年に外交官を辞し、帰国後はスタンフォード大学講師のかたわら、極東問題の講演・言論活動・出版に専念。1937年には来日している。「アメリカは極東に手を出さず、日本に任せよ」という持論はアメリカの極東政策への厳しい批判となり、真珠湾攻撃後には反米活動をした罪で1年間投獄された。

「暗黒大陸中国の真実」(1933年出版)より

 確かに、条約、協定、議定書などに従えば、日本が満州を占領したのは悪い。しかしながら、見方を変えれば日本が正しかったとも言える。いくら条約を結んでも、日本の権益を不安に曝す中国人の妨害行動は収まらなかった。条約は守らない、地下工作・破壊活動は止まない、こういうことが何年も続いた。これでは、日本がこう言うのも当然ではないか。

 「日本が安全を確保している地域が中国人の隠れ家となっている。彼らは敵に残虐行為を働くことを楽しみにしている奴らである。このままでは日本人の安全は確保できない」と。

 平時から、日本人は「敵」となり被害を被ってきたのである。日本が立ち上がった時、世界はそれを「戦争」と呼んだ。これに対して菊の御紋の国の怒りが沸騰した。

 「我々が何年も耐え忍んできた苦労も知らず、結果しかご覧になっていない。日本は不況のどん底にある。世界的不況のあおりを受け、数百万の国民が苦境に立たされた。満州開拓は日本の生命線である。中国人の行動が厳密な意味では戦争と呼べないからといって、我らの生命線が破壊されるのを黙って見ていることができようか。彼らは日本人を殺している。日本人の資産を破壊している。無知の民を煽動し、世界の同情を背にし、破壊工作を続けているのである。無責任な同情である。火の粉が降りかかる心配のない連中が、勝手に編み出したものである。我が皇軍の精鋭を投入せず、ただ手を拱(こまね)いていろと言うのか?

 中国にいる数千の英米人は、日本人と同じ苦悩を味わっているから、気持ちがよくわかる。大半は内心、日本を応援したと思う。アメリカ領事も在中国期間がある程度あれば、同じだろう。

 真面目に反日運動をする中国人がいた。己を犠牲にしてまでも敵に打撃を与えるため、日本製品を買わないという人である。しかし、極々少数で、人口比率で見れば顕微鏡的数値である。しかし1931年に始まったこの運動も、ほかのことと同様、一旦始まってしまうと、全く手の付けられないものとなった。運動の主体となっているものは十中八九、風見鶏のチンピラである。愛国を唱えてはいるものの、愛国の「あ」の字もない連中である。

 典型的な行動だが、中国人はいわゆる墓穴を掘るようなことをする。戦争は全く苦手なのに日本を追い詰め武器を取らせてしまった。ドイツの優秀な軍事顧問の指導を受け、数百万の兵を養い、科学者、技術者を多く抱えながら、正々堂々の勝負ができない。地下工作・破壊活動という姑息な手段しか使えない。


ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。

「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

 日本国民へ
 新年を迎えました。新しい年とともに、日本に新しい朝が明けたのです。もはや未来は少数のものによって決められることはありません。軍国主義、封建主義、あるいは集団主義による肉体的、精神的束縛は取り除かれました。思想統制と教育の悪用はもうありません。いまやすべての人が、不当な規制を受けることなく、宗教の自由と表現の権利を享受できるのです。集会の自由も保障されます。
 ??ダグラス・マッカーサー将軍、東京、1946年1月1日

〈中略〉残念ながら、日本の歴史に関する私たちの戦争中の記述は、あれは「キャンペーン演説」だったとか、「戦争プロパガンダ」だったとかいって、葬り去ることはできない。私たちは、誰もがすべてを知り、自分で判断できる歴史の正確な記述に高い価値を置いている、という。私たちは、日本の制度を「戦争願望」を醸成するものとして排斥してきた。その最大の根拠は、神話を史実として取り入れ、偽りの事実をつくり上げて、歴史の国家主義的側面と嘘の歴史を教えているということにあった。私たちが日本に来て最初に命令したのは、私たちの検閲下で虚偽の記述を削除した新しい教科書ができるまでは、歴史、地理、道徳の授業をいっさい中断することだった。アメリカ本国のアメリカ人はこの決定を民主的措置として歓迎した。

 仮に歴史の正確さを求める私たち自身の基準が完全であるにしても、占領軍が被占領国民の歴史を検閲することが、本当に民主的であるかどうか。アメリカ人はもっと議論する必要がある。

 私たち自身が日本の歴史を著しく歪曲してきた。だから、政治意識の高い日本人からみれば、日本の教科書の「民主的改革」は、私たちが意図しているようなものではなく、単に日本人の国家意識とアメリカ人の国家意識を入れ替えるにすぎないのだ。

 つまり、もはやアメリカ人は日本の歴史家たちが現実を直視していないとか、不正確な歴史記述をしているといって非難できる立場にはいないのだ。戦争中私たち自身がほしいままにしてきた歪曲にくらべれば、歴史の中に神話を入れるほうがまだ正しい。神話は科学的には正しくなくても、詩的には正しいということができるからだ。神話は長い歴史を経て完成した日本文明の象徴にすぎない。歴史の中に神話を入れるということは、科学的史観に反するが、もともと日本は科学的方法というものをつくってこなかったのだ。

 日本人は科学者の方法論ではなく、芸術家や詩人の手法で伝統文化を発展させてきた。彼らは事実より感覚、象徴、直感を重視した。科学的正確さを重視するのは私たちのほうだが、危機的状況や戦争になると、自分の価値観に反したことをしている。にもかかわらず、よその国の国民にその価値観を私たちより忠実に守れというのは不条理だと思う。

 歴史に対する私たちの姿勢は基本的問題にかかわっている。日本の教科書を検閲し神話を追放することだけではない。私たちは日本人にどういう近代史と現代史を教えようとしているかである。恐らく日本人は日本の前近代史に対する私たちの公式解釈を認めないだろう。私たちはすでに日本の歴史を歪曲してしまったから、極東の近代史や戦争原因に関する私たちの解釈が信じてもらえるかどうか疑わしいのだ。

〈中略〉私たちは、どうやら、それと気づかないまま、占領国日本に「思想統制」を敷いているようだ。私たちの制度は確かに私たちが「嘆かわしい」とする日本の制度とは違う。いままでの日本人の思想は日本政府の見解を反映すべく統制されていたが、これからは、アメリカの公式見解を反映させていく。そこが変わった点だが、思想統制であることは以前と変わらない。こういう行き方で、日本人や第三者のアジア人に、私たちの制度のほうが進んでいると信じさせることはむずかしいだろう。

 私たちが公に唱える原則と実際の行動は著しくかけ離れている。マッカーサー将軍が1946年元旦に出した日本の「新しい朝」という仰々しい声明(この節の冒頭参照)と、一年後の1月6日付パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス紙に掲載された記事を比較すると、それがよくわかるのだ。

>新たな追放に揺れる日本(ジャップ)新聞界
> 共同通信によると、日本政府は土曜日午後、新たな追放令と同追放令の対象となる報道関係者について具体的内容を発表した。
> 発行部数二万部を超える新聞社と出版社の幹部は公職とみなされることとなり、これに該当する職にあって、1937年7月7日から1941年12月7日までの間、日本の侵略的軍事行動を支持ないし慫慂(しょうよう)し、または、日本政府の戦争行為を支援したものは、追放の対象とされ、報道、映画、演劇、放送に関係する企業に職を得ることを禁じられる。
> 詳細な発表によると、追放によって空席となった職を、追放されたものの三等親までの親族が埋めることは許されない。三等親には、曾孫、妻、甥、姪が含まれる。(下線は筆者)
> 被追放者はその影響力の行使を禁じられるほか、原職に復帰することも許されない。本追放令とその細目に違反したものは罰せられる。

 この公職追放令は日本政府が出したものだが、だからといって、アメリカはこの政策の責任を免れることはできない。占領期間中は、私たちが日本政府だからだ。日本の役人は命令を実行するだけである。追放された日本の新聞人は、当然、それを知っている。そして彼らは、この話を自分の曾孫、妻、姪たちに語り継いでいくだろう。


金完燮(キム・ワンソプ)=韓国人。1963年(昭和38年)、全羅南道光州生まれ。サレジオ高卒。高校時代の1980年(昭和55年)に起きた光州民主化運動に参加して全羅道庁に籠城、逮捕・投獄され、のちに「国会偉功者」として表彰される。ソウル大学物理学部を経て雑誌記者を経験。1992年(平成4年)よりフリーランサー。1995年に出版した「娼婦論」がベストセラーとなる。1996年より約2年間、オーストラリアに居住。帰国後、「コスタク新聞」を創刊。2002年(平成14年)に「親日派のための弁明」を発表するが、韓国では有害図書指定を受け、さまざまな妨害を受けた。

「親日派のための弁明2」まえがきより

 日帝時代は法がなくても生きられる社会だったという。これは私の親戚がいってくれた言葉である。

 「あの時代を狂おしいほどに懐かしむ人たちも多い。だから集まるたびに演歌をむせび泣くように歌う」。これは私の両親がいってくれた言葉である。

 「『今よりあのころの方がよかったと思わないか?生きる楽しみもあって』というと、同窓の99パーセントは同意する」。これは私に1930年生まれの先輩がいってくれた言葉である。

 「北海道に徴用に行った朝鮮人の賃金は、当時の日本人ホワイトカラーの月給の3倍から5倍で、勤労時間も徹底して遵守され、朝鮮人は幸せだったように思える」。これはチェ・ギホ先生が私にいってくれた言葉である。

 このすべてが、反日洗脳教育を受けて成長した韓国の戦後世代にとっては、天地がひっっくりかえるほど衝撃的な証言である。誰もがもっていたこのような記憶が、なぜ今まで知られなかったのだろうか。


「親日派のための弁明2」より

 伊藤博文は朝鮮を侵略した悪の象徴として、安重根は正義の象徴として、韓国人は一方的な見方を教え込まれてきた。

〈中略〉2000年になって、韓国で初めて伊藤博文の評伝が一冊翻訳出版された。(『伊藤博文』図書出版・中心)。この本には伊藤博文が朝鮮統監職から退いた後も、韓国皇太子である英親王(ヨンチンワン)の太子師(皇太子の教育係。少師は総理大臣であった李完用)であった事実が記録されている。また、伊藤博文が安重根に殺害された後、朝鮮八道(京畿、忠清、全羅、慶尚、黄海、平安、咸鏡、江原の八つの行政地域)の儒林代表らが一堂に会し、伊藤博文の治績を称える集会を開き、銅像を建てた。そして、各道別に謝罪団を結成して鞭をもって日本へ渡り、鞭で打たれることを自ら買って出たという。伊藤博文が死亡した後、韓国王室は文忠公という諡号(死後に贈られる称号)を与え、彼を追慕したという事実も書かれている。

 当時、カトリック朝鮮大教区のミューテル主教が日記で伊藤博文の治績を賞賛し、安重根の「許しの秘蹟」を拒否した事実から、私たちは当時の朝鮮人の伊藤博文に対する感情が今日のものと大きく異なることを推測できる。実際、日露戦争後に伊藤博文が朝鮮を訪問すると、朝鮮ではすべての政治家と官僚が歓迎団を構成して仁川港まで出迎えに行った。仁川から京城までの沿道をいっぱいに埋めた朝鮮人が、日章旗を振って伊藤博文を歓迎するほど、彼は人気のある政治家だったのである。

 最近、韓国のある新聞に、高校生が伊藤博文をどれだけ知っているか、東京で取材した記事が載った。記者の質問に対し彼らは「伊藤博文って誰?お前、聞いたことある?」「どっかで聞いたことあるけど、天皇じゃなかったっけ?」と答えている。現代日本の最も重要な時期を率いた偉大な指導者に関して、日本国民がこれほど無知なのは、日本の教育になにか問題があるからではないか。日本人もこれからは自国の歴史について誇りをもって教育する必要がある。日本人の認識が正されてこそ、韓国人の認識も正すことができるのだ。


朴贊雄(パク・チャンウン)=韓国人。1926年(大正15年)京城(現ソウル)生まれ。1939年(昭和14年)京城師範学校付属第2小学校卒業。1945年(昭和20年)旧制京畿中学卒業。その後ソウル大学法学部、ニューヨーク大学行政大学院を卒業。1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)まで陸軍通訳将校として朝鮮戦争参戦。延世大学講師や仁荷大学副教授などを経て、1975年(昭和50年)カナダに移住。トロント韓国民主社会建設協議会を設立。著書に「朴正熙、全斗煥の乱」などがある。戦後、韓国の民主化を追求し続けた知識人。2006年5月死去。

「日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想」より

 僕は1926年(大正15年)10月に京城で生まれ、数え年20歳で終戦を迎えた。小学校から中学校の教育の殆どを日本人教師から受けており、終戦当時は京城高等工業の学生として日本人学生と共に学んでいた。だから、植民地時代の朝鮮のありようについては、一応総合的な構図を捉えているつもりでいる。

 僕の場合、6歳で京城師範学校付属小学校に入学したとき、初めて日本人と出会った。1年から4年までは緒方篤三郎先生、5年と6年は朝岡寛一郎先生(1909-99年。茨城出身、幼少のころ渡鮮、京城師範卒)に受け持たれた。お二方は親切誠実なうえ大らかで、曲がったことは決して受け入れない性格であられた。特に朝岡先生には、僕らが6年生になってからは放課後の課外授業もしていただき、そのおかげもあって僕は名門の京畿(けいき)中学に受かった。

 当時、朝鮮内の中学校には、朝鮮人だけ、日本人だけ、また少数ながら韓日共学の学校があった。京畿中は朝鮮人だけの中学校であった。当時、小学校にしろ中学校にしろ、日本人と朝鮮人の学生間には、お互いによそ者という感情はあったものの、敵対感情は殆ど見られなかった。

 僕が通った師範付属には、日本人専用の第一小学校と朝鮮人専用の第二小学校があって、それぞれの運動場を中にして隔たっていた。しかし、僕らは6年間を通して第一付属の日本人学校と反目や諍(いさか)いに及んだ覚えはない。

 京畿中の教師は3分の2以上が日本人で、残りの3分の1が日本で教育を受けた朝鮮人教師であった。だから朝鮮のすべての「教育の淵源」は日本ということになる。僕の祖父、朴勝彬(しょうひん)も、合併3年前の中央大学出身者で、合併前に大韓帝国の検事をつとめた後に弁護士、それから普成専門学校(高麗大学の前身)の校長を7年間つとめている。

 当時の朝鮮人は日本人に対して、尊敬はしないものの、軽蔑や敵愾心は殆どなかった。歴史的事実として、植民地化されている現実を認めて生業を営んでいるかたちだった。だから、親は子供に対して、学校でよく勉強していい大学を出て、いい職場にありつくことを願うばかりであった。

 このような朝鮮人の強烈な、そして通俗的あるいは利己的な親心は今もって変わりがない。独立運動をする親もなければ、子に独立運動をそそのかす親などはただの一人もいなかった。


崔基鎬(チェ・ケイホ)=韓国人。1923年(大正12年)生まれ。明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大学院教授を経て、現在、加耶(かや)大学客員教授。民間レベルでの日韓関係改善に努め、サハリン在住韓国人の本国往来問題、原爆被爆者の治療援助、在日韓国人のために尽力。著書に「韓国堕落の2000年史」「これでは韓国は潰れる」など。

「歴史再検証 日韓併合」より

 1939年度から施行された「国民徴用令」によって、朝鮮からの徴用も開始され、多くの朝鮮人が日本本土に渡ったが、その内容は次のようなものだった。

 たとえば、忠清南道(チュンチョンナムド)で実施された徴用の例でいうと、公州(コンジュ)・扶余(プヨ)・論山(ノンサン)・青陽(チョンヤン)・舒川(ソチョン)などに、北海道札幌の三菱手稲鉱業所から、約1000名の鉱夫募集があった。ところが応募者数は約7000名にのぼったために、次のような採用考査が施行された。

  第一次 1939年9月5日
  第二次 1940年3月5日
  場 所 扶余事務所、及び各郡所在地の面(村)事務所
  試験官 第一回 佐藤典正(三菱手稲鉱業所責任者)
      第二回 金丸一郎、金相培(キムサンペ)(扶余邑長)
  ほか補助役三名

 こうして厳選された約1000名は、二組に分けられ、その中の一組は同年9月11日、論山出発、翌12日元山(ウォンサン)港着、輸送船(5000トン級)で翌日の夕刻函館港に着いた。採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽(ふけ)って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ。

 多くの青年たちは、札幌の市内観光や大門通りの遊郭回りに憩を求め、一部は淋病や梅毒に感染し、中には局部の切開手術を受ける者もあって、監督機関では性病対策に苦慮して衛生サックを配るなどした(休暇中の公傷は全額支給)。

 このような徴用の光景は、1945年まで毎年見られた。

注)国民徴用令が実施されたのは1939年7月ですが、適用は日本内地にとどまっていました。「国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも実施する」とした閣議決定がなされたのは1944年8月で、実施は同年9月。つまり朝鮮からの徴用が開始されたのは1944年9月なのです。1939年は朝鮮からの民間雇用が自由化された年にあたります(ちなみに官斡旋による労務募集が開始したのは1942年)。よって崔基鎬氏がここで言及しているのは「徴用」ではなく、あくまで民間による「募集・雇用」です。崔基鎬氏自身、この著書の別のページで「私は、1940年、徴用に志願し、三菱手稲鉱業所で1年間働いたが、実態は強制連行でなく、自発的行為であった」と述べています。


李登輝=1923年(大正12年)台北生まれ。京都帝国大学農学部に進み、1944年(昭和19年)陸軍入隊。終戦後、台湾大学講師、台湾省農林庁勤務、米国留学などを経て71年国民党に入党。72年行政院政務委員として入閣。台北市長、政府首席等を歴任。84年副総統に指名され、88年1月総統に昇格。96年台湾初の総統直接選挙に当選。2000年国民党首席を辞任。総統引退後、台湾独立の立場を明確にした。

2010年7月26日、台湾淡水の李登輝オフィスで行われたインタビューより(インタビュアーは宮崎正弘氏とマット安川氏)

 1895年、台湾割譲によって日本の統治が始まるが、すぐに国民学校の創設が始まり、教育、科学技術、体育を教わることになった。これは明治維新に匹敵することで、日本で私塾が転じてまたたくまに6000校の国民学校ができたのと同率のスピードだった。新思潮が流れ込み、台湾の近代化の礎となった。

 1925年には高等学校が、1928年には台湾帝国大学が創設され、台湾人でもいけるようになった。エリートが増加し、近代的思考、法の尊重が認識された。日本の敗戦までの五十年間の統治により、台湾の近代化が実現した。

 90年代、わたしが総統時代には大きな変化があった。蒋介石は台湾へやってきて一年半で「228事件」がおこり、「大陸反攻」と言っていたが、徐々に台湾政治は内戦型から国と国の関係に変化した。わたしの任務は国民党vs共産党の内戦に終止符を打つことであり、憲法の改正と台湾の民主化の実現にむけて邁進した。台湾は血を流さないで民主化が達成できた。

 台湾人の自決という自覚が生まれ、新台湾建設へのエネルギーに転化されたのである。日本はこのことを過小評価するのはおかしい。

 つまり台湾精神とは日本精神であり、それは何かといえば質実剛健、挑戦的、勇敢。
 そして法治を尊び、責任感があり忠実であるということ。これが台湾人の主体性確保にどれほど役だったことだろうか。


鄭春河=台湾人。1920年(大正9年)台南生まれ。日本名「上杉重雄」。台湾に志願制度が布かれた1942年(昭和17年)血書歎願し陸軍特別志願兵としてチモールに従軍。1993年(平成5年)小冊子「嗚呼大東亜戦争」を自費制作し日本の関係各者に配り、戦後日本人に覚醒を促した。2005年(平成17年)没。

【大阪靖国訴訟補助参加人意見陳述書】
   元日本人 上杉重雄(鄭春河)

 私は植民地台湾で大正9(1920)年に生れて、終戦翌年の6月復員まで、満26年間の日本人であります。
 大東亜戦争の生残りです。

 大東亜戦争が勃発した時、国土防衛は国民の義務だと自覚して、血書嘆願で陸軍兵に採用され、昭和18年豪北のチモール島、第48師団歩兵第二連隊に転属されました。

 当時台湾第一回陸軍特別志願兵は一千名でしたが、第48師団に約八百余名配属されました。
 悪戦苦闘をしましたが遂に日本は敗戦しました。

 21年6月4日、異国民となって中国国民党占領下の台湾に送還されたのであります。
 しかし私の人生に悔いはありません。  

 大東亜戦争で、213万余戦没しました。
 「靖国神社で会おう」と誓い合って、祖国日本の為に潔く散華されました。
 ところが私は不覚にも死所を得ずして本日まで生きながらえたのを恥かしく申し訳なく思って居ります。  

 靖國神社は、日本人の感情の上に立って、建立されたのです。
 祖国日本の為に命を捧げた方々に対して、国民として、永久に祀りつづける場所であります。

 古来日本では、亡くなった人を慰める方法は、たったひとつ、祀ることです。
 もっと生き永らえることが出来たのに、その命を絶たれた方々に対する鎮魂の場で有ります。

 決して戦争を鼓舞するための、魂を荒ぶらせるための場などでは絶対にありません。

 私は今まで秘密にしておりましたが、この際やむなく公開しなければならない事がございます。
 一九九九年(平成11年)10月19日、靖国神社御創立130年大祭に招かれました。

 前列の指定席に案内されたのです。
 ところが不思議哉、式典の最中に、英霊の声が伝わってきました。  

 目を閉じたら驚く勿れ、

「おい上杉、お前は死なずによかった。
 俺達は国の要請で戦場に立ち、この祖国日本のために愛する親、兄弟、姉妹、妻子、恋人への恋慕を絶ち切つて俺達が死んで逝ったのだ。
 ところが俺達がこよなく愛した祖国から裏切られ、この靖国の地の公式の祭祀は見捨てられ、総理、国賓の表敬参拝、自衛隊の部隊参拝もしないのは一体何たることか。
 俺達の死を何と考えているのか。
 今日日本の平和と繁栄は俺達の犠牲の上にあることを認識しているのか。
 俺達はこんな冷たい祖国の発展を願い、こんな心ない祖国のための礎となったのではないのだ


 と。

 これだけではありません。
 その夜又ホテルに現われました。  

 「俺達は生れ変りたい。極楽浄土へ昇天させてくれ」

 と将校以下十数名が代表として来られたのです。

 翌朝フロントで「鄭さん夕は来客が多くて忙しかつたでしょう」ときかれてびっくりしました。

 英霊は、昔ままの服装で階級章もつけていました。
 夢のようで夢ではなかったのです。

 しかしこんな事を言うたところで誰が信じてくれますか。
 私はどうしてよいか分りません。

 大祭が終わって帰国後二年半になりますが、その時聞いた言葉が今なお脳裏にとどまり、胸にせまってくるのです。  

 日本の皆々様、英霊のおかれた報われぬ死に悲憤し、この日本の心なき変節に激怒する血涙の絶叫を、如何思召遊ばされますか?  

 国のために命を捧げられた246万6千余柱の護国の英霊に、一国の総理が国民を代表して感謝の意を表するのが何故いけないのか。

 小泉総理・靖國神社を訴訟するのは以ての外です。
 世界何処の國にもこんな例がありません。  

 自分たちの国を守る尊さを、どうやって伝えるのでしょうか。

 護国の英霊が祀られている靖国神社を訴えるなどという冒涜を、私は人間として許すことができません。

 この人たちは英霊の気持ちを考えたことがあるのでしょうか。
 このような非道を放置すれば、やがては社会が乱れ、国もつぶれ、人の顔をした餓鬼が跋扈する世となるでしょう。

 どうか裁判官の皆様、大義名分を明らかにして正義に基いた御裁断を元日本人の一人として謹んでお願ひ申し上げる次第でございます。

  (附嗚呼救国之神靖國英霊一冊)  

  平成14年6月10日
  元日本人 上杉重雄(鄭春河)
  臺灣台南市(以下略)

  大阪地方裁判所 裁判官殿


アリ・ムルトポ=インドネシアの軍人。演説当時准将。ASEAN結成の中心人物。

名越二荒之助著「日韓2000年の真実」(国際企画・平成9年発行)より

 今(平成9年)から15年ほど前、アジア各国の軍部代表がマニラに集まった時のこと。フィリピンと韓国の代表が日本を罵倒する演説を打った後、アリ・ムルトポ准将は、韓国の軍人に向かって次のように日本を擁護した。

 日本はアジアの光である。
 大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである。


 ここで、インドネシアの日本民族の価値についての見方を申し上げる。

 今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。その時に韓国が一番困ると思う。韓国は工業大国日本と競争したから、立派な工業国になれたのである。

 もし、日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人は少なくとも百万人が日本に住み、日本人と同等の教育を受けるから、その人間関係から日本の技術、市場、金融、スタッフ等活用することができる。だから企業の成功は容易である。

 つまり、日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。
 経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ。

 インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。
 つまり、我々インドネシア人は『日本はなにもしてくれなくてもよい』と考えている。
 日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分、アジア・アフリカにつくしている、と考えている。


 だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。
 日本から援助をもらうだけで応援しないのでは運命共同体とは言えないし、対等のパートナーとも言えないのではないか。


川口ユディ=ハンガリー・ブダペスト市生まれ。米国に留学しイリノイ大学にて芸術を専攻。同地で日本人男性と知り合い、後に結婚して日本に暮らす。NHKテレビの国際放送番組「ウイークエンド・ジャパノロジー」「Out&About」や「ニッポンアートウィーク」のレポーターとして日本人や日本文化を世界に紹介している。また、元特攻隊員の貴重な証言を自身で設立した、(株)盛之助のウェブサイト(http://morinoske.com/)で公開している。

撃論ムック「世界に愛された日本」【日本ほど素晴らしい国はない!】川口ユディ氏×田母神敏雄氏の対談より、川口ユディ氏の発言抜粋

 日本の植民地統治のことをもっと教えるべきですよ。西欧諸国に支配されているところへ日本の軍隊が入っていって、いっぱい追い返したでしょう。西欧諸国にとっての植民地は利益を搾取するところ。日本は違う。日本は逆にその国にいっぱいお金出しました。今、世界で発展しているアジアの国は日本が統治していた国ですよ。フランス、ポルトガル、イギリスが統治していた国は今も発展してない。今も貧乏。この点だけでも日本人、誇りもつべきだと思う。

 私、アメリカに行ったときに植民地支配のやり方勉強したの。日本以外はすごいひどいでしょ。「戦争で日本はひどいことした」なんて、どの国にも言われたくない。日本人、そんな言葉、信じちゃいけないですよ。だから、もうちょっと日本の素晴らしい歴史をPRするべきね。それが日本人、超下手ですよ。自己PRできない。もちろん、それまた日本人の美徳なんですけれども。だから、そこに私の仕事あると思う。アイ・ラブ・ジャパンな外国人だからできること。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【私からも一言、言いたい!】

まず、日本は、アジアを植民地化(搾取型で日本のそれは投資型)していた欧米列強と戦争したのであって、
中国を除くアジアとは一切戦争はしてない。
唯一戦争をした中国に関して・・・

中国では、市民戦争と列強の植民地支配と日中戦争で、混沌とした時代だった。
中国や世界中で、中国人の被害者が、全て日本軍のせいにされてるのが、本当にむかつくわ。

同民族同士で殺しあってたりしてて、日本を含む列強植民地の租界区だけに法と秩序があって、その外はカオス。
それで、大量の中国人が身の安全を求めて、租界区に流れ込んだ。

そこに中国の国民党や共産党や暴徒が流れ込んで、略奪殺人で暴れる、それで列強が反撃に出る。

「アメリカの鏡・日本」という本では、「アメリカ(イギリスかも?)は、中国人が租界区で暴れてそれに反撃しても、「中国人は野蛮だ」と言ってるのに、日本の租界区で同じことが起きたら「日本は野蛮だ」と言っていて矛盾している」と指摘している。

南京大虐殺というのは中国とアメリカが戦後数十年間でこしらえた大嘘で、当時のアメリカ誌は、南京で日本軍が殺した中国人(ゲリラ兵含む)は3万3千人と報道している。

戦後数十年の間に、犠牲者は膨れ上がり、現在30万人+1万人。(当時の南京人口が20万人だったのに

しかし実際は、南京攻略後、人口は20万人以上に増えている。何故か?
日本軍が租界区にしたので法と秩序が保たれて、身の安全を求めて近隣から中国人が集まってきたからだ。

日本人なら、租界区とか習ったはずでしょ?

それなのに、中国人が一方的に中国人を殺したのは全部日本軍とか南京で30万人が日本軍に殺されたとかいう中国共産党が始めたプロパガンダを日本人まで信じ込んでしまっている。

南京攻略では、日本軍は5000人で、南京事件なるものはあったが、大虐殺ではいし、たった数週間で、5000人の日本軍が30万人の逃げ回ったり反撃したりする中国人やゲリラ兵を日本刀や銃で殺せるわけがないし、人骨も見つかっていない。

日本側が南京を掘って人骨を探しましょうと提案しても中国側はいつも断る。

いい加減、日本人なら、自分らの先代らを信じようよ。
何で、ウイグルやチベットで弾圧し、同民族まで何千万人も殺している中国共産党のプロパガンダを信じられるのか?

海外でであった日本人女子が、中国人に南京事件について謝罪を求められたので、謝罪したと誇らしげに語ってきたことがあった。
私は「それって、中国共産党が仕掛けたプロパガンダで、証拠もないし、捏造写真とかばっかだよ」と言ったが、
彼女は「ううん、私は本当にあったと思う!」と命を賭けて日本を守った先代より、戦時中でもないのに同民族や異民族を虐殺している中国共産党を信じていたもんだから、呆れて、何も言えなかったわ

日本には、自分の非を認める潔さが美徳とするところもあるせいだろうが、
非が悪人によって雪だるま式に膨らんでいることまで、認めるわけにはいかない!!

貴方は、自分らの祖父・曾祖父と中国共産党と、どちらを信じますか?



見ろ!実は、日本兵は中国で礼儀正しく、皆から愛されていた。 より

日本軍は、戦闘が終わると敵味方の区別なく、戦闘地にお墓を作ってきた。これは、日本人の武士道精神を表した写真である。

● 山東戦線の彰徳で墓標を建て慰霊祭を営んだ。「中国無名戦士の墓」と書いてある。(1938年)
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● 北京郊外の中国戦死者墓地に参拝する日本軍将兵(1938年3月)
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● 孟子廟の入り口にこのような注意書きを掲げた。

「孟子廟に参拝する日本軍人の心得」

1、孟子は孔子と共に支那人の最も崇拝する偉人である。我々、日本人にとっても精神的文化の恩人である。

2、参拝する者は、故国において神社、仏閣に参拝すると同様の心得を持って慎み深く行動すること。

3、模範的行動が皇軍の名誉を発揚し支那民衆に日本軍が親しまれる力となることを忘るべからず

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● 道端に倒された孫文の銅像に旗をかける日本兵
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現地市民の間でも日本軍は、規律に厳正で、シナ軍よりもよっぽど信用できるとの評価を得ていた。

● 中国人の子供を可愛がる日本兵(1938年)
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● 中国人の子供を中心に正月万歳(1938年)
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● 日本軍部隊へ毎日来て遊ぶ中国人の子供(天津)
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● 中国人の子供に芸を披露する日本兵(1938年)
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● 中国人の子供にキャラメルをあげる日本兵
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● 日本軍兵士と遊ぶ中国人児童(1937年)
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以下の写真は中国メディア提供で、解説には、「住民は怖がっているようだ」というような中国共産党の勝手な感情は排除してあります。 元記事:【チャイナネット】親切を装う日本軍 真実を暴く古写真


写真は日本軍が中国人おばあさんの傷口を包んでいる
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綏遠という地で、日本軍が当地の子供と遊ぼうとしている
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日本軍は村民にものを配給している
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